自分の中の戦い
金曜日の仕事帰りのこと。
毎週金曜日は、一週間分の疲れが溜まって、身体がくたくたです。
やってきた電車の座席に座ってほっと一息ついていたら、70代くらいのおじいさんが私の前に立ちました。
おじいさんは、杖をついて歩くほどヨボヨボでもないけれど、誰が見ても、「おじいさん」という雰囲気です。
優先座席でなくても、自分の目の前に高齢者が立っていれば、普段の私ならば席を譲ります。しかし、その日の私はとても疲れていて、できればずっと座っていたい、というのがそのときの正直な気持ちでした。
私の中の悪魔は言います。
「おじいさんだけど、元気そうだし、大丈夫。寝たふりをすれば良いのだ!」
一方、天使の方は、
「いやいや、老人には席を譲るべき。疲れたといってもあのおじいさんに比べればまだまだ若いではないか」
私の中の天使と悪魔は暫しの間、戦います。
そして勝ったのは、天使。
私は「どうぞ」と老人に席を譲りました。
おじいさんは、こちらが恐縮するくらい喜んでお礼を言ってくれ、私が先に電車を降りるときにもまた、「ありがとうございました」と丁寧なあいさつをしてくれました。
人の為は自分の為でもある
老人に席を譲っただけのことなのですが、何だかとても清々しい気持ちに満たされました。
それから電車ではずっと立っていましたが、不思議と辛くはなく、仕事の疲れも吹っ飛びました。
感謝されるということは、何て気持ちの良いものなのでしょう。
もし、このとき、私が寝たふりをして席を譲らなかったとしたら、きっと自分の中にモヤモヤした気持ちが残ってしまったことでしょう。
そして、座っていても、ちっとも身体は休まらなかったに違いありません。
席を譲るという、些細な事ではありますが、人のために何かをするということは、結局は、自分のためになっているということなのでしょうね。
東京都心部の電車で
時々、東京の都心部の電車に乗ることがありますが、今まで、誰かが高齢者に席を譲る場面に遭遇したことがありません。
たまたま、なのかも知れませんが、山手線でも、先日乗った、東京メトロ銀座線でも、老人が乗ってきても、皆知らんぷりなのです!
スマホをいじっているから気が付かないのか、気づかないふりをしているのかは定かではありませんが。
私が住む郊外の電車などでは、時々席を譲る場面を見かけるのですけれどね。
数か月前に、目黒から山手線に乗って座っていたら、恵比寿から上流の雰囲気を漂わせたとても品の良い老婦人が乗ってきて、私の目の前では無かったけれども、少し離れたところに立っていました。両手には買い物袋を下げていて大変そう。暫く様子をうかがっていましたが、誰も席を譲らないので、混んでいたし、とても気の毒だったので席を譲ったのです。
座った後に、持っていた買い物袋を落としてしまった老婦人。目の前に立っていた私が拾って差し上げました。
そうしたらとても感謝されて、私が新宿で降りる直前に、持っていた荷物の中から高級そうなお菓子を取り出して、「こういうお菓子はお好き?とても親切にして下さったから、お礼に差し上げるわ」とお菓子を頂いてしまいました!
先日の地下鉄銀座線でも、本当に皆、誰も席を譲りません。
私より若い人がいっぱいなのに。
そこで席を譲った老人も、何だかこちらが恥ずかしくなる位喜んでくれて、もしかしたらこのおじいさんも、山手線の老婦人も、滅多に席を譲ってもらうことがないのだろうか、と思いました。
おわりに
都心部の人は皆、疲れていて余裕がないのでしょうか?
そんな風に考えてしまうのは私の偏見なのかもしれませんが。
それとも恥ずかしいとか?
優先座席でなければ、譲る必要はない、という考えなのかもしれません。
また、過去に高齢者に席を譲って断られたことがあるから、という人もいるかもしれません。
私の場合も、断られることは何度もあります。「ワシはまだ若いんじゃ!」なんて切れられたことはありませんが、本当に遠慮から断られることはよくあることです。
しかし、そいういう時は、また座り直すだけのことです。
恥ずかしくも何とも感じません。
けれども、「どうぞ」の一言に勇気がいるのは分かるような気がします。