ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧」新訳
オーストリアのユダヤ人精神科医で、第二次世界大戦中は強制収容所に収監されていた、ヴィクトール・E・フランクル(1905-1997)の著書「夜と霧」では、収容所での過酷な体験と、極限の状態での人間の心理や行動についてが、自身も被収容者でありながら、大変冷静な目で綴られています。
この本の旧版が、私が子どもの頃、父親の本棚にありました。
確か、小学校の高学年だったと思います。少し興味を覚えて読んでみようと思い、ページをめくったら、あまりにも残酷な写真が衝撃的で、思わずページを閉じてしまい、その後もうその本を手に取ることはありませんでした。子どもには、本当に残酷な写真だったのです。
それから長い年月が経ち、数年前、父が持っていた本の新訳が出たことを知りました。そしてその新版では写真が載っていないとのこと。いよいよこの本を読む機会が訪れたのです。
あたえられた環境でいかにふるまうか
強制収容所では、過酷な日々の中にあっても、人間らしさを失わずにいられた人も存在しました。
本文中から、もっとも印象に残ったところを引用します。
たとえば、こんなことがあった。現場監督(つまり被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。わたしはそれが、監督が自分の朝食から取りおいたものだということを知っていた。あのとき、わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あのときこの男がわたしにしめした人間らしさだった。そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった・・・。
こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者の中にも、まともな人間はいたのだから。
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった人間を知った。ではこの人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには十分だ。
おわりに
どんな過酷な状況に身を落としても、自分のふるまいは、自分で決められる。自分はその自由を持っている。
自分の精神の自由だけは、誰にも奪われない。
そう思うと、怖いものは何もないような気がします。
自分はどのように生きていこうか、その姿勢について深く考えさせられました。
初めて手に取った小学生の頃から30年以上が経ち、ようやく読む機会が訪れたこの本。
おそらく私にとって、著者のメッセージが一番心にまっすぐ届くであろう年齢が、「今」だったのだと、思っています。