東野圭吾著「人魚の眠る家」
「脳死」という非常に重いテーマを扱った小説です。
近々離婚する予定であった仮面夫婦の娘が事故に遭い、おそらく脳死であろうという状態になります。
そこで親はどんな選択をするのか?
意識は全くないけれど、人工呼吸器をつけているとはいえ、心臓は動いています。
それでも死んでしまったと思えるのか?
決断は出来るのか
心臓が動いていて身体が温かいのであれば、いくら意識が無いとはいえ、人工呼吸器を外したり、ましてや臓器提供を決断することは、なかなか出来ないことのように思えます。
親はもしかしたら「奇跡」が起こるのではないかという希望を捨てることが出来ないのではないでしょうか。
物語でも、娘への呼びかけに対して、娘の身体が反応する場面があるのです。
親は「だから諦めてはならない」と思うのですが、医師は偶然起こった脊髄反射であると冷静な判断を下します。
しかし母親の娘への愛は、次第に狂気じみたものになって行きます。
移植を待つ側の家族
一方で、子どもの病気を治すには移植しかなく、ドナーが現れるのを待つ家族が出てきます。
印象的な箇所を引用します。
我々はどこかの子供が早く脳死すればいいなんてこと、少しも考えておりません。妻とも話し合ったんです。お金が集まって、渡航移植が決まったとしても、ドナーが現れるのを心待ちにするのだけはやめようと。少なくとも、決して口にはしないでおこうって。
ドナーが現れたということは、どこかで子供が亡くなったわけで、悲しんでいる人がたくさんいるに違いないですから。
移植手術は善意という施しを受けとることであり、要求したり期待したりするものではないと考えています。同様に、脳死を受け入れられず、看病を続ける人たちのことをとやかくいう気はありません。だって、その親御さんにとっては、その子は生きているわけでしょう?だったら、それもまた大切な一つの命じゃないですか。私は、そう思います。
おわりに
母親の娘への愛が周りからは異常な行動に映りますが、読了後、私はこの母親の大きな愛に深い感動を覚えました。
物語のプロローグに、ある少年が登場します。
エピローグでその少年がまた登場するのですが、想像もしていなかった結末にびっくり。感動で涙が止まりませんでした。
こういう表現は少し語弊があるかもしれませんが、読了後は清々しい気持ちになりました。
ぜひおすすめしたい作品です。